説明
明治45年(1912年)に当時の下手稲尋常高等小学校(現在の手稲中央小学校)の高橋勇教諭と児童が、遺跡を発見しました。しかし、その後大規模な調査は行われずそのままになっていました。
ところが、昭和28年(1953年)に手稲中学校の生徒が収集した完全な形の土器がきっかけとなって、昭和29年(1954年)には、北大の大場利夫教官の指導のもとで、同校の石川徹教諭や生徒たちが発掘を行いました。
石狩湾の海岸線から4キロメートルも内陸の紅葉山砂丘上に位置するこの遺跡からは、縄文時代後期中葉(約3500年前)の土器や石器が多数出土しています。ここから出土した土器はのちに手稲式土器と呼ばれ、縄文時代後期中葉を代表する資料となっています。 |
|