説明
昔、線路から北側の土地のほとんどは泥炭(でいたん)地でした。泥炭というのは、湿地などに水生植物やコケなどが積み重なってできたもので、水はけが悪く栄養分が少ないため農業には適さない土ですが、スコップで四角に切って掘り出し乾燥させて、冬場にまきや石炭代りに燃料として使うという生活必需品でした。
昭和17年(1942年)ころ、曙・前田地区の牧場主の三浦義雄が泥炭の販売や加工燃料(タドン)の生産などを始めました。昭和20年(1945年)に入ってからは、草炭工場の土地を北聯(ホクレン)にゆずり渡し、「北農軽川草炭工場」として事業が開始され、昭和24年(1949年)まで営業していました。
なお、現在の樽川人道橋の手稲本町側にも、この草炭工場の赤レンガの建物がありました。 |
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