説明
第二次世界大戦中の昭和20年(1945年)7月6日、家を焼かれて食料も欠乏してしまったため、杉並区出身の一団などの201戸953人が、国の方針で北海道へ集団入植する事になりました。
彼らは、列車では昼夜敵機を警戒し、青函連絡船では津軽海峡の機雷に怯えながら、昭和20年(1945年)7月9日に軽川駅に降り立ちました。
そしてこの日の内に、「拓北農兵隊手稲分隊」の一行17家族は、村役場の緊急手配で用意された、三浦牧場の牛小屋を宿舎としました。
この宿舎は人の背たけより低い区切り板で各戸分に仕切られ、家族人数に応じて大小の部屋が割り当てられたものでした。長い旅の疲れで眠りにつこうとしても、牛ふんの臭いが部屋のあちらこちらにこびりつき、とても休めるものではなかったそうです。
その翌日から、会社員、新聞人、建具屋、こっとう商、ししゅう屋などの農業をしたことがない人たちが、慣れない手つきで開墾を進めていきました。自家菜園耕作、建築用材として落葉樹のばっ採、農業見習い、野菜取りなど、老若男女がそれぞれ食べるために必死で働きました。
敗戦後の11月頃にようやく共同の小屋を去り、現在の樽川通の左右に家が建って、移り住むことができました。
なお、拓北農兵隊は他に、琴似、豊平、白石、札幌、広島、千歳等へ入植しています。 |
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