

<資料名> |
開拓者 三木 勉 |
<よみがな> |
かいたくしゃ みき つとむ |
<写真> |
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<収集地> |
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<受入区分> |
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<製作地> |
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<製作年代> |
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<使用地> |
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<使用年代> |
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<材質・材料> |
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<備考・コメント> |
宮城県磐木郡(現在の宮城県南部ー旧刈田県)白石の人。仙台白石支藩 片倉家の家臣で家は代々家老職にあった。天保13年(1842)2月 父弘人の子として生まれた。明治4年(1871)、29歳の時、元白石 藩の人々の北海道集団移住に加わり、石狩から上手稲開拓者の移動が決定 した明治5年(1872)正月、貫禄取締役(開拓者の人を取締る役目) を命じられ、47戸を率いて入植した。その時34歳で、学徳に優れた三 木勉は開拓団の人達から推薦されて時習館(じしゅうかん)の塾長となり 特色ある教育した人である。これが手稲教育の始まりとなった。上手稲村 に在住した年月は、短時日であったが、教化を通じて地方開発に尽くした 功績は大きかった。後年、月寒村の戸長(村長)に就任したこともあった 。
札幌創建百年あたって出された「札幌百年の人びと」の中には三 木勉の業績や功績が記されている。 |
<収蔵施設コード> |
11:手稲記念館 |
<大分類(コード)> |
01:記録<地図や写真など> |
<中分類(コード)> |
01:記録<地図や写真など> |
<小分類(コード)> |
04:写真:レポート、写真、実測図、テープなど取材等の結果生み出された資料 |
<個別番号(コード)> |
11-0002 |
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